悔しかった。 怒号をあげたいくらいだった。3.11 | 福島県在住ライターが綴る あんなこと こんなこと

悔しかった。 怒号をあげたいくらいだった。3.11

夫の勤務する会社の部署の移動により
私たちは、誰も知らないふくしまに来ました。

 

最初のうちは
夫婦揃って「都落ち」感が強く
早く埼玉に戻りたかったものです。

 

それが変化したのは
長男の通う幼稚園に寄付してくれた
野菜の土と苗が、
郡山市の若手農家さんたちから
届いたものだということを知ったとき。

 

 

なぜならば農家育ちの両親から
農家のネガティブな話を聞きながら育った私が、
ふくしまにきたことで初めて
農業に誇りを抱く人たちの存在を
知ることができたからです。

 

だから帰省のたびに郡山産、福島産の野菜や米を持参して
「ふくしまの産物」自慢をしていたというのに
あの日を境にして変わってしまいました。

 

そのあと、何も出来ない自分に落ち込み。

友人知人は県内最大の避難所に行き
炊き出しや、なにやら手伝っているというのに

私は会社が休暇になった夫と
学校が休校になった子どもたちの
食事づくりと買い出しで家を出ることができなかった私。

 

それしかできない小さな自分が情けなかった。

 

原発事故と津波災害のニュースばかり流すテレビ
地元県内の情報が
なかなか入ってこなかった。

 

だから当時お世話になっていた出版社を訪ねると
「本を出してくれ」と熱意の塊の社長がいて。

紆余曲折あって翌年本を出したとき。
私はようやく自分が「役に立てた」と実感したのです。

 

そのあとも走った。
休みなく走った。
私一人だけじゃない。
当時、私の周りの人たちはみな走っていた。

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あの頃の私は、どこか
気持ちがおかしくなっていました。
(実際にメンタルの専門家の方から指摘されました)

 

今、9年前を振り返るとき
別の感情が流れてくる。

辛い経験、自分の限界、無力さ。
あと…。誤解を恐れずに言えば傲慢さも。

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今春、息子たちはふくしまを離れます。

ふくしまを離れた彼らは
どんなふくしまを語るのだろう。

あと10年経ったら聞いてみたいと思います。